わたしたちは、資本主義の虚構の中で王様のように生きている

つれづれエッセイ

最近、マヤ文明に興味津々な私。

 

これまでは「マヤ文明」と聞いても「はあ・・・。」としか感想を持たなかった。

言葉は知っていたが、あとに想像が続かず。あまり見たことがない「信じるかどうかはあなた次第、都市伝説」番組のオープニングソングが思い浮かんだ。つまり、すごく興味がなかった。

そんな私が、最近昼夜問わずマヤ文明のことを調べまくっている。天文学、ピラミッド、人間を生贄にする文化・・・など。

マヤ文明が繁栄したというユカタン半島をGoogle mapで調べ、Googleアースでその周辺を旅した。現在は観光地化されているところ以外で名残を感じるところがあまりなく、残念だった。

いきなりマヤ文明にハマった理由は、何を隠そう週末にメル・ギブソン監督の「アポカリプト」という映画を見たからだ。

ちなみにアポカリプトはギリシャ語で啓示、黙示録、終末感って感じの意味合いらしい。

マヤ文明の終焉前夜を描いた作品なのだけれど、これがもう、、す、すごかった。

瞳孔が開いてたんじゃないかと思うくらい、興奮のさなか。

映画を見た直後に「どうだった?」と聞かれ「もう、じ、十分です、お腹いっぱい。」というくらい心臓がバクバクして、しばらく息を整えるのに時間がかかった。

深夜に昆布茶をゆっくり飲んだ。

そのあと私は、なぜか映画では全く触れられていないことを感想に持った。

「資本主義社会も、ある意味では終焉していくかもな。」って。

現代の文明の、終焉。

忽然と消えたマヤ文明ってどんなの?

なぜかそんなことを思ったのだが、まずマヤ文明と現代文明は大違い。

現代の技術に相当するくらいの高度な天文学があった文明でもあるが、相反するような原始的な文化もあり、その代表的なものが人間を生贄にするというものだ。

雨が降れば、神がお怒りになっているからと、それを鎮めるために人間を捧げる。生贄はマヤブルーという塗料で体を真っ青に塗られる。

そうかと思えば、現代でも解読不可能な高度な文字体系、マヤ文字を持っていたり・・。

紀元前1000年頃から16世紀頃まで1800年ほど続いたマヤ文明は、あるとき忽然と人口の大多数である200万人が姿を消したとも言われている。そして、それからゆっくりと、しかし確実に一世紀をかけて文明が完全に終焉した。

諸説あるが、生贄文化のせいで人口が減り、それで文明が衰退したという説もある。

映画を見るとわかるが、毎日ボッコボコと、人が生贄にされる。人口が減りまくる。生贄にされピラミッドの上で切り落とされた首が、貴族の手によって宙に投げ出され、ゴロゴロ転がり落ちる。

共感能力が異常に高い私は、他人と自分の感情の境界線が薄い。もちろん映画や本との境界線もとても薄く、ときどき自分が映画の中に入っているのか、外にいるか感覚的に混ざってしまうことがある。今回は特になかなか中から抜け出せない。

その過激なグロテスクさも抜け出せない要素のひとつなのだが、映画を見ていてショッキングなシーンが現れた時は、だいたい目を手のひらで覆い、指の隙間から問題ない箇所だけ見ていたので、しっかり見ていない。だからそれに関してはまあまあ大丈夫だ。

シンプルストーリーに見る圧倒的な「人間のリアル」

 

この映画を引きずっているもっとも大きい要素は、映画のシンプルなストーリーが表す圧倒的な人間の「リアル」だ。(*以下ネタバレ含みます。)

物語の冒頭では、妻やこども、同じ部族内の仲間たちと平和に暮らしていた主人公。捕まって、生贄にされるのだが、タイミングよく逃げ出すことができる。ただし、そこから長い逃走劇が始まるのだ。

協力しあって獲物を捕まえたり、いじられ役がいて部族みんなで爆笑していたり、なかなか平和な日常だったのだが、ある日他の部族から襲撃されるのだ。生贄や奴隷にされるために。

傷つけられ、あるものは殺され、首と腕を縛られて何日も歩かされる。行き着いた先はマヤ文明が栄えた地域の中でもかなり都会で、ピラミッドが建てられ、奴隷が売り買いされていた。ジャングルの中で暮らしていた主人公の部族たちとは大違いだ。

主人公は生贄にされ、神に捧げられようとされる。生贄にされる台にまで登らされたが、順番がきたすんでのところで運よく天候が変わり、儀式は終了。

主人公はなんとかそこから逃走することができたのだ。

生贄に逃げられたのは初めてなので、プライドが傷つき命がけで追いかけるマヤ帝国の部族。もちろん主人公も命がけで、怪我をしながらも1秒も休まず走り続ける。

この映画がめちゃくちゃ面白いと思ったのは、この逃走劇がシンプルなのだ。

ただ、何日も走って走って、走る。

映画にありがちな、いきなり誰かが助けてくれるとか、すごい賢い知恵を使って走り方を工夫するとか、そんなのはない。そういう非リアルはできる限り削ぎ落とされている。

実際、生きるというのは、そういうことだと思う。

ただただ、走り続ける。

いい場面でいい知恵を思いついたり、すっごい助けがくるとか、そんなのはなくって、ただ、生きる。

まっすぐ走り続ける。うまく敵を撒こうとか、そんな余裕はない。渦中にいる間は、そんなこと考えられない。

逃げて逃げて、追っ手を何人も殺して、肉食動物にも追われ、高い滝から飛び込み、自分の森も越えて、最後にやっと浜辺まできてその先を拝むと、海にはスペインからの黒船。

同じマヤ文明の違う部族同士で追いかけて逃げて争っていたが、それどころではない。

布を巻いて半裸で暮らしている部族の争いの果てに見たのは、どちらかの勝ち、負けではなく、きちんとしつらえられた洋服を着て遠い国からやってきた宣教師たち。

マヤ文明に比べて何倍も発展しているのは一目瞭然で、一貫の終わり。

追っ手は戦闘力が一気になくなり、浜辺にがくんと膝を落とすのです。

それからのことは、その先の現代を生きている私たちが歴史としてよく知っているでしょう。マヤ文明はその後すぐに衰退します。

日本が江戸時代の頃ですね。

その文明の終焉前夜の絶望感が衝撃で、しまいには私、夢を見る始末。

夢の中の方で現代の資本主義時代に生きてて、目が覚めたらマヤ文明の時代に生きていた女性だった方が現実、でした。

いつも、文明の終焉ってこんな感じ

でも長い歴史の中で、文明の終焉っていつもこんな感じだと思うんです、実際。

天文学やマヤ言語、ピラミッドのあったマヤ文明だってかなり高度だったし、その時代に確固たる地位を気づいていたに違いない。

恐竜だって、当時は時代の王様だったはず。

まさか。

まさか自分より数百倍も小さい、蟻や、虫や、他の動物が何千年後も地球に残り、自分たちは跡形もなく消えてしまうなんて思ってもいないでしょう。

自分たちはその時代の王的位置に君臨していたと、絶対的な権力を持っていたと思っていたはず。遺跡が物語っています。

資本主義のアポカリプト

 

これって、どうです。

今の私たちが、そのポジションにいるとも思えませんか。

地球を牛耳って、絶対的な地位にいて。

産業革命で人口は爆発的に増えて。

300年前は、人間は10億人しかいなかったけれど、今や65億人にも上る。

多くの人がMacをカフェでポチポチ、ついには両手ばなしで運転できる車まで出来た。毎日大量のファストファッションが世界中で作られては捨てられている。

人間以外の動物を殺し、ゴミを大量に増やし、人間同士ですら権力争いをしている。

富や名声、機能的価値に振り回されて、虚構を追いかけている資本主義時代の真っ只中だ。

ある日、高度なマヤ文明のように、プツン、と終焉してしまったら。

資本主義という虚構の中で、王様のように生きているけれど、これはずっと続くのだろうか。誰がそれを言い切れるだろうか。

一寸先がどうなるかもわからず、ただ走り続けているアポカリプトの主人公と、何が違うのだろうか。

マヤ文明の生贄文化のように。犠牲になっているものに耳を傾けることが、終焉から逃れるヒントかもしれない。

地球を、たくさんの生き物を、私たちの自身の人間らしささえも犠牲にして、その代わりに、進歩の余白をばくばくと食っている。

Saki

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パリ在住のジャーナリスト、ファッションバイヤー。

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