SAKIの超詳しいプロフィール史

プロフィール

プロフィール

大阪出身。

現在フランス・パリ生活3年目です。

ワーホリビザで渡仏したはいいが、渡仏1日目でずっと住む予定だった家を失う。

このままフランス生活を終わりたくない!という負けず嫌いな性格から、日本に帰国はせず、もともとのライターの仕事に加えて、ファッション販売サイトのBUYMA上で自身のオンラインショップを開設。

BUYMAバイヤーの仕事を始めて、1年目で1人で年商4,000万円に引き上げました。

去年までフリーランスでしたが、最近株式会社を立ち上げ、社長になりました。

そんな私のプロフィールを徒然なるままに、紅茶を片手に、ゆっくり振り返って綴ってみたいと思います。

誕生秘話・生まれた時から振り返ってみる・・・

あれは・・31年前、、、

5月、初夏のある日、南大阪の下町に誕生。

長女として生まれました。

生まれた時、父はローマに出張中。

そんな中、母は初めての出産を頑張ってくれたそうです。

父は、国際電話で無事に私が生まれたことを聞き、母にこんな手紙を送っています。

嬉しいよ〜。

ちなみにこの手紙は、感動な感じで親から渡されたとかではなく、

28歳くらいの時に、国際手紙送ってよーって、例えばこんな感じ、って例文みたいな使われ方で、さらりと母から送られてきました。(笑)

こんな嬉しいの、早く見たかった(笑)

なんだか縁のあるローマにいつか家族で行きたくて、パリからは近場なんですが、まだ行かずにとっておいています。

生まれた瞬間はそんな感じで、その後すくすくと育ちました。

大人になったいま、すくすくの言葉通り(笑)、私は発想のままに、どこまでも行動していく人なんですが、

それは、両親に「やめなさい」「こうしなさい」「こうでなければ」とか「それはダメなんじゃないの」と言われたことがほぼないからだと思います。

親には「言っても聞かないから諦めている」と言われますが「信用して、任せる」っていう、愛が大きいからこその、育て方をしてくれているんじゃないかって思います。

親は心配性なので、不安だったこともあると思います。

でも、私が金髪に染めた日も、アフロにした日も。(笑)

そのせいで、両親がいまは亡きおじいちゃんにめちゃくちゃ怒られたときも。

親がおじいちゃんに怒られたことは、私に言わずに

「不良になってないです、あの子は考えはしっかりしているので、大丈夫です。」と言ってかばってくれたそうです。

 

急に海外に飛び出したときもそう。心配そうでしたが、止められることはありませんでした。

なんでも私のやりたいことを、止めずにやらせてくれてで、とても素敵な環境でした。

過保護にしないかわりに、責任を持つなら、好きなことをとことんやらせてくれました。

学生時代

箸が転げてもおかしい年頃、ご飯の時や部活の休憩時間には、毎日友達と死ぬほど笑っていた記憶があります。

笑いに厳しい大阪の土地で「面白いこと」をいつも追求していて、笑いすぎてよく椅子から落ちてました・・・。今でも、鮮明に思い出すことができます。

勉強が好きでした。

「新しいことを知れる」「わかるってことが楽しい」って思いました。

「牧場みたいでとてもいい高校」と評判の、憧れの進学校に入りました。

枠にはめる必要がない、自分を表現できる古着ファッションに、命をかけ、

文化祭や体育祭を全力でやったり、毎日教室でも校庭でも公園でも笑いまくって。

毎日寝るときには、明日が楽しみすぎてドキドキして寝れないほど(大丈夫?笑)の高校生活。

高校一年・人生のターニングポイントが起こる

ただ、高校一年の半ばで、私の生活は変わりました。

詳しくはオブラートに包みますが、家庭の経済状況が悪くなり、家族が変わってしまった時期がありました。

優しかった家族が、冷たく、怖くなったように見えました。

今なら、家を支えるために必死だったのだと思えますが、その時はただただ、目の前の事実が怖かった。

お父さんは趣味のゴルフをやめて、ゴルフクラブを売ってしまったし、些細だけれど、いつもの生活が変わっていくのを感じて、それがすごくすごく怖かった。

家族が変わってしまうのでは・・・?という恐怖をずっと感じていて。

大好きな家族、変わりたくない。

私も、なんとか家計を手伝えれば、と、自主的に楽しかった部活を一時的にやめて、めちゃくちゃ微力だけれど、バイトを始めました。

でも、本当は部活をやりたかったので、バイトは全然楽しくなくて。。

焼肉屋で働いたのですが、お肉、全部同じに見えて全然種類覚えられなかったし。(笑)

肉は同じに見えるし、鉄板は熱いし、何で私だけ、楽しい高校を早く出て、熱い肉屋で働かないといけないんだろう?(焼肉屋に罪はない。ごめん。笑)

みんなとマクドに行っても、みんなはお小遣いでセットを頼む中、私はバイト代の余りで、単品しか頼めなくて。ジュースじゃなくて水で。。って。

それにめちゃくちゃ劣等感を感じていたので、その頃マクドの前を通るといつも、胃がみぞおちあたりに落ちてくるような、グッと重くなるような感覚がしました。

恥ずかしいし、みんなが羨ましかった。羨ましいを通り越して、お門違いにも恨んだりしていた。。

お小遣いももらって、部活もできる状況って、いいな。。とかね。心の中でね。思ってた。(笑)

今思うと「知らんがな!好きにさせてよ!」って感じですよね・・。ただの嫉妬・・。恥ずかしい・・・。

自分だけが人よりやらないと同じところに行けないってことを否定したかったし、

なんとか自分の頑張りを意味のあるものと、肯定したかったし、

自分目線での人との平等を保ちたかったんでしょうね。。

「人より頑張らないといけない」

「人に頼ってはいけない」

「自分で稼がなければいけない」

こんな考えがこびりついてしまい、以後15年間くらい、それが私の軸となってしまいます。

今思ったら、住むところがなくなるレベルとかではないし、些細なことかもしれないんですが、当時の私にとっては大きな大きなことでした。

センシティブ思春期・・・。

本命一発の大学受験

それで、大学受験もすごく気をつかいました。

お金がかかるし、行くのは手に職をつける専門学校ではないし、

受験勉強のためのテストで頑張っていい点数をとっても褒められることがなくって、とても悲しかった。

ただ、この時も、悲劇のヒロインの渦中にいたので、マイナスな面しか見れてなかったんですよね。

15年くらい経ってやっと気づきましたが、両親は塾の送り迎えをしてくれたし、毎日働いているのに朝食も、お弁当も毎日作ってくれてたし、アドバイスする時はあれど、私の決断をいつでも止めることなく、好きにさせてくれて、信頼してくれていました。

そこかしこに、愛情がたくさんありました。

お金の悲劇を自分の中で大きくしすぎて、それに囚われすぎてしまっていました。

愛情の示し方なんて、自分が求める形だけじゃないのに。

お金だけじゃないのに。

 

私には夢がありました。だから大学に行く必要があったんです。本当に本当に、行きたかった。

「とりあえず大学に行く。」って感じの人が周りに多くて。それなのに、みんな親にお金出してもらって、塾も全教科通えて、滑り止めも受けられて、遠くの大学も受けることができて、いいなあ、ずるいなぁって、思っていました。

今なら、正論に見せかけた、ただの嫉妬ってわかるんですけどね。うら若き女子高生でしたから。。

受験も、一つ受けるのに3万円とか、受験料がかかるので、滑り止めを受けずに、本命2つの大学だけを受けました。

本当は東京の大学に行きたかった。

けれど、一人暮らしをしなければ行けない遠さのところは候補からは外しました。実家から通えるところで、偏差値のマックスなところ。今でも思ってる、行きたかったぜ東京・・。

幸いにも勉強は好きで、目標ができたら爆走できるタイプの私には、受験という制度が合っていたので夢中で、集中できた。

その結果、受けた2つの大学どちらもで特待生になれたので、無利子の奨学金で学費を払うことができました。

社会人になってから、少しずつ返しています。

出る杭叩かれた会社員時代

高校生の時から、ずーっと働くことに憧れていました。楽しそうだし、人に頼らなくても生きていける!

就活が終わり、やっと働ける!

入社が楽しみすぎて、入社式の挨拶で「この仕事に関われてハッピーです。」と言ったら、失笑を買い、以後「ハッピーちゃん」というあだ名がつけられました。。(笑)

楽しみすぎて、浮いてました・・・。

その後、会議でふらっとした発言によって、社長に気に入られ、1年目としては異例の社長案件の大役を任されました。

ただ、右も左もわからない1年目。

しかもその時の社長の方針が「君の独創性を生かせ。先輩たちの言うことなんて聞かなくていいんです。」って言われて、新人がやるべき掃除や倉庫整理などを全て免除されました。

 

加えて私は、会社員として足並み揃えて、規定のペースで仕事ができるタイプではなかったので、仕事できないわけのわからない新人が贔屓されている、ということで、かなり、お局様に嫌われました。

 

人生で初めて「面と向かって話しかけても無視される」って経験を何度も何度もして、めっちゃショックでした。

決定権のある先輩に話してもらえないので、仕事の返事を決められなくて、クライアントに白い目で見られたりしました。

私は、周りがどう思っているか、とかを他人の言動で人一倍察知してしまうタイプで。

繊細な私はそれで辛くなり、身動きが取れなくなりました。

出る杭は打たれる感じがしました。

だから、出る杭にならず、地味にひっこもう、と思って、ひたすら社長に嫌われるようにしました。

積極的に発言しない、結果を出さない、など・・・。

 

すると1年ほどで、見事に嫌われ、ひっこむことができました。

 

そこからはなるべく目立たないように、相手がやりやすいように、をポリシーに掲げ、仕事をしていました。

そのうちに、当たり前ですが、目標なんてなくなり、どうしてこの仕事をやっているか、わからなくなってきたのです。

また、小さい頃から社会になんの疑いもなく、先生や世間が言うことは絶対正解だと思っていた私が、初めて「こんな、自分の意見を言ったら叩かれる社会って正解なのかな?均一化が絶対の世界って、良いのかな?」って疑いを持った時かもしれません。

 

毎日深夜まで働く営業職。自分の意見を、人生を、考える時間なんてなくて。それも苦しかった。どこに向かっているかわからなくなってきた。働き詰めで、プライベートの時間もほぼなく、自分がなくなっていくような感覚でした。

 

 

「辞めたい」

 

こんな気持ちが、ひたひたと、心の中を占拠していきました。

情熱を失ったことに加えて、知らない人に社交辞令ができない。

私は全く社交的なタイプではないと思います。

リスペクトがない接し方をされて嫌なのに笑うとか、興味がないのに話しかけるとかが全くできず、すなわち接待とかが本当に苦手。

会社員としてバランスは取れていませんでした。

今はその繊細な特性を生かして、感受性が豊かなために人の痛みがわかる記事をかけたり、誰かを救える特性である、とポジティブに捉えていますが、当時はそんな風に、すぐに感じ取る自分を、うまく隠して振る舞えない自分を、ずっと責め続けていました。

会社を辞める理由を考えろ

3年目くらいで、その当時の上司に勇気を出して「辞めたい」って言いました。

とてもいい上司に恵まれていました。

彼が言ったのは「もし本当に辞めたかったら、止めはしないけれど、逃げたい気持ちでもし辞めたら、次でも絶対成功しないと思うけど。」

その言葉が、とても刺さって。

「確かに、何か次の希望があって辞めたいのではなく、逃げたいだけだな~。」って思うことができました。

それから、「自分はどうしたいのかなー」って思いながら、働き続けて、続けて、考えて。

ついに自分がやりたいことを見つけられたので、4年半の会社員生活に終止符を打ちました。

ただ一つ、言っておきたいのは、会社の上司や先輩や同僚は今でも大好き。クライアントも大好きな人は多いです。

自分が会社員という枠にハマるのが苦手だっただけです。

今でも帰国したら飲みに行く人は、仕事関係の人が多いですね。

(送別会を盛大にやって頂きました。今でも頑張り時などには、この時の写真や動画を見て元気をもらっています。)

「書くこと」が大好きなフリーランス時代

私がやりたいこと。それは。

「書くこと」でした。

小さい頃から本が大好きで、いつか、仕事として文章や、文字や本に関わりたかったんです。

そして、できれば、そこで、自分が書きたい。

 

小さい時から、親が近所の図書館に連れて行ってくれていました。

行きすぎて、自転車置き場の上の揺れる木の葉や、図書館に近づくと感じる無機質な建物の匂いと、本の匂いが混ざり合ったのを、今もいつでも、鮮明に思い出します。

図書館の子供用スペースの絨毯に座って、夏休みなんかは、朝から晩まで本を読んでいました。

小学校の同級生に「さきちゃんずっと図書館にいるよ、住んでるみたいやな」って言われるくらい。

週末に図書館で開催される読み聞かせの会も大好きで、親とよく一緒に行っていました。自分で読むのとはまた違った感じ。

人の声のトーン。ペースで、また世界が変わる。面白い。

本の中の世界は、圧倒的に魅力的で、本を開くとすぐその世界に入っていけた。

本の中で、ジャングルにも行ったし、ドイツにも行ったし大海を泳ぐ旅にも出た。たくさんの仲間に出会った。

そこから、愛や勇気や知識や、憂い、人の悲しみ、喜び、いろんなことを学んで、それが私という人間の軸になった。

楽しくて楽しくて、最寄りの図書館の子ども用の本を全て読みつくしたので、少し遠い図書館に行ったりしていました。

今でも、図書館や本屋が大好きで、私にとってのパワースポット。いるだけで、並んだ背表紙や活字の溜まり場を見るだけで、幸せです。

 

(フランスの読書会にもグイグイ参加する私。(笑))

だから、会社員として、営業としてイベントの会社4年半働いて、何がしたいか?と思った時に「書いてみたい」って、思ったんです。

ちなみに、なんで新卒で出版系に行かなかったのか?というと、

出版社も受けていたのですが、全部書類選考で落ちたからです。(笑)

「書くこと」を仕事にするにはどうしたらいい?出版社にまともに応募しても、未経験の転職だし、また落ちるのではないか・・・と恐怖もありました。

そうだ、ライターなら、最近はネット媒体もあって未経験でも参入しやすいのではないか?と考えました。

そこで、まだ会社員だった頃に、転職活動開始。

常に深夜まで仕事があり、出張も多い中、出張先の会場で、ホテルで。

打ち上げや撤収が終わった深夜2時頃から、記事をたくさん書いて、書いて、ネットの媒体に応募しまくりました。

そうして2つくらいの媒体に採用された頃、1記事3,000円とかの仕事でしたが、「うん、なんかいけそう!」って謎の自信を持ち、退職しました。

その時は、記事を書くのもすごく遅くて、1週間で1記事とかしか書けなかったのに、「生活費、どんな計算?」って感じですが、

なんか2つの寄稿先である媒体に採用されて、いけるって思っちゃった見切り発車型タイプの私。。

でもそこから、いろんな媒体に応募しました。

募集欄から応募する時もあれば、募集していなくても、お問い合わせ欄から、「ライターです。御社で記事を書きたいです。」ってメールを送りまくりました。

1つに採用されてば、他社でも1社書いているので立派なライターです、アピールをし、もう1社受かれば、「ここと、ここで2社もうライアントがいます。」とアピールをし、そうして少しずつ書けるところを増やしていきました。

大好きな日経ウーマンで記事を書けた時は、すごく嬉しかった。海外で働く日本人女性にインタビューして、時間をかけてまとめました。

http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20150528/206821/?ST=flicklf

フリーランスのライターを名乗れるようになってきて、在宅で、毎日何記事も書きまくる日々でした。

飛び出せカナダへ

ずーっとずーっと、海外に行きたかったんです。

父が小さい頃ヨーロッパにずっと出張に行っていて、かっこいい!って憧れてました。

お金がない中、行けないか?って何度も企み、高校の時の留学制度に応募しようとしたり、大学の時に国がやっている留学制度に応募しようとしたりしましたが、そういう制度でも、とりあえずちょっとはお金が必要なんですよね。

英語ができるとか、何の応募条件も満たしてないのに応募したりしてましたが。。ダメで。。(笑)

 

 

そのうち会社員になりました。

少し休みができると、いろんなところに行っていました。

インドネシア、台湾、タイ、ニューヨーク、ハワイ、韓国、ハンガリー、オーストリア、グアム、などなど・・・。

忙しすぎる会社員が終わり、フリーランスになり、在宅でできる仕事だったので、どこでも働けるようになりました。

少しだけですがお金も貯まって。

「おお、今じゃない?!」

そして、

「そうだ、海外へ住もう。」

と思い立ちました。

気持ちを温めていた期間は長すぎたので、決まったら早いですね。

ビザをソッコー取り、身辺整理をして、3週間で飛び立ちました。

ついに海外で生活できる!

ワクワクした私は、スーツケース一つで、カナダ・バンクーバーへ。

フィリピン系カナダ人の一軒家の一部屋を借りて、他の留学生の韓国人・ベトナム人と仲良く暮らしていました。

日本人の友だちは最初全然いなくて、みんなとのコミュニケーションはもちろん英語。英語漬けの毎日。

毎日自分の英語力の成長を感じられて嬉しかったし、語学学校では無理やり自分のレベルより上のクラスに入っていたので、伸びていくのを感じました。

少し経って、英語もひやかし程度にできるようになったので「働いてみよう!」と思いました。

日本食レストランで感じた、移民として暮らす屈辱

貯金の関係もあり、なるべく早く働きたかったので、てっとり早く絶対採用してもらえるであろう、日本食レストランで働くことにしました。

同僚はほぼ全員日本人だけれど、お客さんは地元の方や、日本人以外の方も多い。

英語を使っての初めての仕事の体験でした。

新鮮で、お客さんと雑談で盛り上がれた時なんかは「うわ何・・私英語できるやん・・」って超調子に乗ったりしました。(笑)

 

ただ、だんだんモヤモヤしてきたことがありました。

飲食店でホールのサービスは、大学生に戻ったような気持ちで。

「箸は右向きに」「そのお皿はそこじゃない」とかで怒られる。

自分の仕事人として頑張ってきた10年が、なくなってしまったような、巻き戻ってしまったような屈辱でした。

海外に来て、移民として暮らすというのは、語学ができないっていうのは、こんなにも仕事が限られるのか。って気持ちになりました。

正社員として働くなんて、好きな仕事を選ぶなんて、何年先なのだろう。

飲食店なら飲食店で、その仕事を目指している人がやるのはいいと思うんです。

ただ、私はお金を稼ぐためだけにそれをやっていて、そこにやりたい理由なんてなかったんです。

そのとき「やりがいを持って、自分の好きな仕事をいつでもできるフリーランスになろう。」って強く思ったんです。

もう、いやいや仕事をするのは、避けたかったんです。

 

どうしたらいいかわからなくて、「今の生活、どうしようかな・・・。」って、迷う気持ちが出てきました。

 

また、特にアジアの移民が多いバンクーバー。しかも留学生が多いので、いろいろ整っていて、めちゃくちゃ暮らしやすい。

ほぼ不自由はない。海外感はあまりなく、日本の延長のような生ぬるさでした。

少し、退屈してしまっていました。

フランスへ行った理由

カナダにいるとき、度々フランスへ旅行で遊びに行っていました。

フランスに来てから思っていた。

フランスの誇り高い街の様子、文化や歴史が詰まっている場所。

詳しくは知らないけれど匂い立つそれらがすごく魅力的でした。

加えて、日本とフランスで全然違う「働く」っていう文化、知りたい。書きたい。

会社員のときに感じていた違和感「たくさん働くのが美徳」「プライベートも犠牲にしなければならない」風潮。

素敵な先輩方が、笑顔で、深夜4じとか、遅くまで働く会社。

あの働き詰めの日本に、何か変化をもたらせられるんじゃないか。

だんだんとフランスに移住したい気持ちが強くなり、旅行からそのまま、フランスへ住むことにしました。

フランス料理を作ったり、郊外に遊びに行ったり。楽しい日々はあっという間に過ぎていきました。

ただ、ノリで来て、パスポートだけで居られる期間は3か月。

このままフランスに住み続けるなら、ビザを取得しなければなりません。

だから一度、日本に帰国しました。

そして2か月準備して、やっとワーホリビザをとって。フランスに戻ってきました。

「外国だからなんかすごい、というさもしい考えに気づく」

外国というフランスに魅力を感じていた反面、それ以上に、日本の謎の同調圧力に負けて逃げたところもありました。

「みんな同じゴールを目指すべき」「婚活しなければならない」みんなと同じでないといけない」とか、

遠くにいけば、多分、ワーワー言われずに済む。

そういう考えがあった自分がいました。

大嫌いな日本の同調圧力に負けていた自分に気づく

そのとき、わたしは、まだまだ仕事したかった。

ひとは一人一人それぞれ人生が違うんだから、タイミングが違って当たり前。

正直まだまだ、結婚なんてしたくなかった。

でも女子会に行けば、みんなが「婚活しなきゃ」「残っちゃう」「やばい」

「何がやばい?」聞いても納得できる明確な答えは得られなかった。

何が?根拠は?どんな考えでそう言っているの?

自分の意見として話している言葉は感じられませんでした。

周りがたくさん言うから、いつしかそれが自分の意見だ、と思うようになった感じの、いわゆる流されている意見が多いように感じました。

だから、その頃、遊びや集まりに行くのが本当につまらなかった。

婚活、仕事の愚痴、自虐・・・他の話題はないのか?

こんな仕事をしたいとか、こんな人生にしたいとか。どんな夢があるとか。

わたしはそういうことを話したかったんです。

もちろん恋バナも好きでしたが、集まった人が順番に恋愛の近況報告をする、以上、っていうのがどの女子会でも定番。

正直、頭が腐りそうになった。

私がしたい話は、どこでできるのか。

情熱を持って時間が一瞬で過ぎ去るような場所は、どこにあるのか。

周りに合わせないといけない、合わせられないと浮いてしまう、そんな、日本という国から、どんどん逃げたくなっていました。

でも結局、私が一番嫌いな同調圧力に毒され、負けてしまっていたんです。

グローバリゼーションの本当の価値をわかっていたのではなく、ただ戦後教育で刷り込まれた「西洋ってなんかすごい」に見事に飲み込まれていた。

仕事に邁進していても、ワーワー言われなくて済みそう。

自分を否定したくはないですが、あの時の稚拙な考えの部分は、今の私は賛同できません。

人生立て直し。負けず嫌いでフランスに残り、バイヤー活動を開始

人生立て直し。負けず嫌いでフランスに残り、バイヤー活動を開始

そして、フランスの地でいざ「どうやって暮らしていこう?」ってなりました。

フリーランスのライターの仕事はあったし、なんとか暮らしてはいけたけれど、十分ではなかった。

加えて、言語の仕事であるライター。一番海外ではじめがたい職種。

外国ですぐ取材とかを始められるわけではなく、日本のネット媒体への寄稿のみ。

しかも、宵越しの金は持たないタイプの私。。貯金はあんまりありません。

物価が高いフランスでは、生活がカツカツになってしまうのではと思いました。

そんなこんなで収入源について考えている時、友人から「フランスにいるんやったらBUYMAやったらいいやん!」とLINEが来ました。

「BUYMA?なんだろう・・・。」

調べてみると、オンラインショップを開き、海外の店舗でカバンや財布などの商品を買い付け、日本のお客様に送るシステム。無在庫販売で、注文が入ってから買いに行くシステムなので、資金がなくても始められる。

こんな素敵なビジネスある!海外にいるならやってみるしかないじゃん!!って思いました。

これが、BUYMAとの出会いでした。

BUYMA活動開始 パソコンパニック初期編

やってみたい!と思ったらすぐに行動に移す私、早速会員登録をします。

会員登録をしたら次にすることはなにやら「出品」だそうです。

出品をするには、商品のページを「編集・加工」しないといけないらしい。

うーん。。やったことない。

ペイントで加工しようと試みてみましたが、パソコン作業が超、苦手な私。。

どこをどういじったら画像を貼り付けられるのか?背景を薄く?文字を入れる?え?なに?pr:vj34wprgjqヴェッbrshfb @dvせlkjdbvジェ・・・・

すぐに頭がパンクしました。わからなすぎて、パソコンを何度も投げそうになりましたが。。。

これをやらないと進めないし、始めたのに途中で辞めるの悔しいし。。。ってことで、気が狂いそうになりながらも、3週間くらいかけて何品か出品しました。(ヤバ遅すぎ。。笑)

少しすると、ちょっとだけ慣れてきて、毎日何品かずつ出品をしました。

すると、ある日1品売れたのです。

「わ、売れた!!!」すっごく嬉しかったです。

早速フランスのオンラインで買い付けたのですが、 待てども待てども来ない。

全くわからないフランス語でなんとか調べてみると、なんと不在だったから、郵便局に戻っていったらしく、郵便局に何日もあるとのこと。

「えっ?私、ずっと家にいたのに・・・。不在通知もなかったし。。」

そうです、フランスの郵便事情は、、、最悪なんです。(笑)

フランスのアパルトマンは、ほとんどエレベーターがなく、かなり上の階でも階段で上がらなければいけないことが多いんです。

だから、面倒くさがりな郵便局員は、上がらずに、不在通知を入れて帰るんです。たまに、不在通知すら入れないことも・・。

ネットで荷物を追跡して、初めてわかったりするんです。

そんなの、日本だったら考えられないですよね?

「これが、海外かーー!」っていう気持ちに。(笑)

フランスの洗礼を受けました。(笑)

BUYMA 梱包地獄の中期編

少しずつ、ページの作り方も、リサーチもわかってくるようになって、商品が売れるようになってきました。

すると、次に出てきたのが梱包問題。

商品が次から次に家に届きます。梱包しても、しても、終わらない。

梱包って、ちょいって終わりそうに見えますが、意外と時間がかかるんですよね。

1日に10個くらい梱包している時は、それだけで1日が終わっていました。

そして、郵便局に行っても、行っても、発送が終わらない。

アパレル繁忙期の秋冬の時期に従って、売り上げはどんどん伸びていき、商品はバンバン売れ、1日に3回とか、郵便局に行っていました。

「何この娘。。」と郵便局員にも冷たい目でみられるし、仕事も一人でやっているし、ちょっと辛くなっていきました。

忙しすぎて、友達の誘いも断りまくり、大好きなパリにいるのに全くパリを楽しめてなくって、何も感じられない、淡々と作業をこなすだけの毎日が過ぎていきました。

BUYMA外注化・月利益100万円達成な後期編

忙しすぎてかつ、孤独で精神がやられ、過呼吸になった日を境に、一人でやるには限界があるな・・・とある日気づきました。(遅)

深夜に過呼吸になり、海外という地で孤独なことが追い打ちをかけ「ちょっとやばいなこの状況は」と思いました。

その頃月の利益が、当時の目標を超えて50万円くらいあったのですが、この方法じゃ物理的にも精神的にも頭打ちだ・・・と思いました。

なので、ついに、作業の一つをアウトソーシングに出すことに。

出品を契約した方にお任せしたら、わあ、なんて楽なんだろう!と思いました。

また、買い付けも一人でやらずに何名かにお願いをすることにしました。

空いた時間で、リサーチや経費の生産、新しい方法の開拓なんかができます。

そうするうちに、また利益が伸び出してきました。

また、誰かと一緒に仕事をすることで、誰かとつながっている感も得ることができ、状況は好転していきました。

そして、BUYMAを初めて半年で、月収100万円を達成。

とっても嬉しかったです。海外でも、生きていけるんだ。頑張れば、道は開けるんだ。と嬉しかったです。

生活のために始めたBUYMAですが、楽しくて、ライター業と並行して続けています。

なぜこのブログを運営しているのか?なう

日本で、カナダで、この地フランスで。たくさんたくさん経験を重ねました。

そうすると、自分が選んで、感じて進んできたそんな経験を、想いを発信したくなってきました。

そうして、2017年夏にこのブログを開設。

周りを気にしすぎて、同調圧力で苦しくなって、日本を脱出までした私が、

これだけネット上でさらけ出せるようになったのはなぜか?

それは、

フランスに来てから、

「何が自分の好きなこと?」「自分は何がしたい?」

毎日毎日、世間の声に惑わされず、自分の頭で考えて続けた結果、自分に自信ができたし、だんだん見る視点、考える視点が変わってきたからです。自信=自分を信じることができるから、何も恥ずかしいことはないんです。

こんなところで晒けだすことは、恥ずかしい、承認欲求の塊みたいだ、って域を越えて、

こういう風に書くことによって、誰かの役に立てるかも、誰か救われる人がいるんじゃないかって思ったんです。

正直に言うと、過去の自分を救ってあげたいのかもしれません。

このブログで、勇気が出たり、救われた気持ちになったり、希望が湧いたりしてもらえる人がいたら嬉しい。

私の体当たりすぎる人生が報われます。(笑)

そして、一人一人の人生なんてそれぞれ違うのだから、選択肢がたくさんあることを知ってほしいのです。

幸せの選択肢は一つじゃない。周りと一緒にしなくていい。本当に自分が好きなこと、を知るのが大切だと思う。

お互いにその選択肢が、自分と違っても、自分と真逆でも。

いいね!って認め合える世の中になったら。

そうなったら、私はとっても幸せです。

Saki

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パリ在住のジャーナリスト、ファッションバイヤー。

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関連記事一覧

  1. A

    こんなところで晒けだすことは、恥ずかしい、承認欲求の塊みたいだ、って域を越えて、

    こういう風に書くことによって、誰かの役に立てるかも、誰か救われる人がいるんじゃないかって思ったんです。

    正直に言うと、過去の自分を救ってあげたいのかもしれません。

    このブログで、勇気が出たり、救われた気持ちになったり、希望が湧いたりしてもらえる人がいたら嬉しい。

    私の体当たりすぎる人生が報われます。(笑)

    さきさん、素晴らしい!きのうスカイプしていただいたAです。私もブログとか、SNSで自分を出すの恥ずかしいとまだちょっと恥ずかしいと思ってたけど、さきさんのこのポストを見て、どんどん自分を出そうと思いました。確かに、さきさんのこのブログ読んで、勇気もめっちゃ出たし、救われた気持ちになりました。変な承認欲求とかじゃ全然ないですよね。やっぱり自分を出して、その経験をシェアして書かれてる方のブログやSNSは、魅力的だし、その人自体が好きになります、テクニックとかより前に。さきさん、ありがとう❤️

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