「物語性」を読まない本の読み方について語りたい(言葉について)

こんばんは。
天気がよくて、窓からひた入る日の光が気持ちよくて・・・寝転がって本を読んでます。
一生本を読んで暮らしたいし、活字に巻かれて死んでいきたいくらい。
目次
「好き」の理由が一般的なものでないとき
なんで自分はこんなに本が好きなのかな?って考えたときに、これまでは「知らない知識に出会える」とか「やったことない経験を本を通して味わえる」という一般的によく言われる理由なのかなーってぼんやり思ってたけど、よく考えるとそれが一番の理由じゃなかったです。やっとわかりました。
頭で理解するのではなく、美しい言葉をただ絵のように感じている
わたしが本を好きな理由は、芸術的といえるくらいの美しい言葉のかけ合わせや、自分の気持ちにしっくりくる秀逸な文章や単語に本当に本当に興奮を覚えるから。
だから音楽をかけながら本は読めないし(集中力が下がるから言葉への興奮度が減る)、
本のあらすじをまるで覚えてないときもあります。(しぬほど数を読んできたから忘れるのかなって思ってたけど、言葉を追いかけてたからだったかも。)
人生が安定しちゃったら気持ちが安定して、興奮する言葉に出会えないんじゃないかという危険な思考(笑)を最も優先しています。
本を読む以外にそうゆう言葉と出会えるのは、自分が希少なきもちになったときだから。
また、ゾクゾクする言葉の使い方をする人を非常に崇める傾向にある笑。
ちょっと偏愛的なくらい、言葉に多大なる重きを置いてる。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
一般論にかまけた、自分を知らない鈍さっていうのはある意味凶暴なものだったりする。
あらすじも、読んだかすら覚えていない本も多い
小さい頃から図書館に籠り、本を読み漁り、一番近い図書館の本はほとんど読んでしまって、隣の校区の図書館に行って本を読んだりしていました。
でも私は本のあらすじを話すのがとってもうまくないし、なんならあらすじを覚えていないこともあるんです。
絶対に本が好きだし、絶対に情熱を持って読んでいるのに、なんで・・・。ってずっと思っていました。
壊滅的にアホなのでは・・・ってコンプレックスがありました。
読むスピードが早いし、もしかしたら、ちゃんと読んでないんじゃないかって思っていました。
でも読んでいる時は絶対的にのめり込んでいるし、ハリーポッターが出た時は部屋から2日くらい出てこなかったらしいし(記憶にない)、形だけでなく情熱を持って読んでいるはず・・・。
でも、最近「読む」にも種類があることに気づいたんです。
読み方の種類
・物語を読む(ストーリーを追う)
・知識を読む(ビジネス書とか)
・言葉を読む(言葉の美しさにしびれる)
読み方には、きっと種類があるんだな、と思いました。
もちろん私も、1つ目に書いたように、物語が面白くて読む本もあります。
勉強のために知識を読むこともある。
でも相対的に、上の3つ目に書いた、「言葉を読んでいる」ことが圧倒的に多いです。言葉を見ているって感じです。
やっぱり言葉の美しさを楽しんでいます。
だからストーリー重視の洋書よりも、ちまちました心の機微とかを丹念に書き上げる邦書が好きだし、
自己啓発書よりビジネス書より小説が好き。
気づいたきっかけ
これに気づいたきっかけは、「乳と卵」で芥川賞を授賞された川上未映子さんのドキュメンタリーを見ていた時です。
ドキュメンタリーの中で、川上未映子さんは、口先から出た言葉ではなく、自分の内臓から、粘膜からこそぎ取って出てきた言葉を使っている印象でした。
私にとっては、それがけっこう衝撃で。
どんな類の衝撃かというと「そんな風に喋ってもいいんだ!」っていうものでした。
話されていたその言葉たちにほとんど全て共感したし、「その言葉を、この間隔をあけて」使いたいのわかる!とか思ったのだけれど、
今までそれを外に出していいんだって思っていなかったし、ましてや対人にも使っていいんだ!とは思ってもいませんでした。
ドキュメンタリーを見て「相手に受け入れられるんだ!」と考え直したのではなくて、
単純に「そっか、自分の好きな言葉を話していいのか!」って
解放された感があり、とっても嬉しかったんです。
自分の在り方にも気づけた
私は自分の頭の中には美しい言葉のストックがたくさんあるのに、うまく話せないんだろう、って思っていたんですが、普通にわかった。ずっとセーブしていたんです。
この言葉を使っても「え?」って思われるだろうな、とかはいつも勝手に思ってしまうので、本当に腹の底から使いたい言葉を使わなくて、(言いたいことを言わないということではなく、言葉の選定の話)
そして、話したい言葉で話していないがために、変なバランスになるし、いつもしっくりこなくて、だから自分の在り方をどこに持って行ったらいいかわからなくて、
既存の箱に無理やり押し込めているイメージで、ちょっともやもやしていました。
「自分の言葉を使っていいんだ!」と思った瞬間に、自分の在り方がわかった気がして、とても楽になりました。
そういうのができている人をすごく尊敬していましたが、「なんかかっこいい」としか思っていなくて、なぜ「いい」と思っているのかわからなかったんです。
でも、それも同時に、はっきり理由がわかって嬉しくなりました。
人を好きな理由がわかること。
とても心地がいいです。
そう、本当に、人の言葉の使い方にめっちゃ重きを置いています。
自分の言葉を話しているかそうでないかはすぐにわかる
言葉以外のところでも、もちろんその「人」を感じますが、
私が好きな周りの友人や、著名人をなんで好きかと考えた時に、
私に限っては「圧倒的にその人らしい、その人の言葉を使っている」人たちだったんです。
いざという時に、自分が吐く言葉に嘘がない。
それが意見でも感情でも悪口でも、そこにうそがないと言うのはすごいことです。
私は勇気がないので、よく自分の気持ちに対して嘘をついた言葉を使います。
嘘をつくという意味ではないです。
おばあちゃん探している左にある郵便局を「右にあるよ!」って教えてあげるという意味の嘘ではないです。
かなり減りましたが、特に会社員の時は、大丈夫じゃないのに大丈夫って言うとか、やりたくないのにいいねって言うとか。そういう類の嘘です。
そしてそれにすぐ気づいて後悔したり。
「嘘でもつかないと、社会では渡っていけないよ!」という環境も多分にあると思いますが、それも、もし本当に無理なら、環境を人によって選択していけばいいだけの話だと思います。
逆に私があまり好きでない人は、どこかで聞いた一般論をまるで自分の意見のように、一時的な感情を取り込んで意見として成立させた風にして、発言する人。
しかもそのカラクリに自分で気づいてない人、です。
どれだけそれっぽく見せても、すぐにこういうのはわかるものだと思います。
自分の言葉を話す人は本当にかっこいいししびれるし、ずっと付き合っていきたいな、と思います。
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